スイーツの文化史:平安時代にも「かき氷」があった⁈
文化史学科研究室です。
暑い日が続きますね。
清泉女子大学には卒業生が運営する「清泉カフェ」があり、様々な手作りお菓子やピザが並びます。そんなカフェで6月30日には和菓子「水無月」が販売されていました。
「水無月」は6月30日夏越の祓で食べる和菓子です。白い外郎の上に小豆を乗せ、三角形にカットされています。小豆の赤色には邪気払いの意味がこめられ、三角の形には暑気を払う氷を模していると言われています。
清泉カフェで販売された「水無月」 |
暑い夏に「氷」はなかったのかな…
ふと疑問になり、調べてみると、平安時代にも「かき氷」があった⁈というウワサが!
そこで、日本古代史が専門の中野渡先生に「平安時代の氷事情」を聞いてみました。
もしや、冷凍庫もあったのですか???
平安時代の冷蔵庫「氷室」
現代のように冷凍庫が無く、氷を人工的に作ることができなかった時代は、冬にできた天然の氷を、氷室(ひむろ)と呼ばれる貯蔵施設に保存をして、夏などに使っていました。今から約1000年前の平安時代、文学作品や貴族の日記には、この貴重な氷を、夏の暑い日に口にしていたことが記されています。彼らは氷をどのように使っていたのでしょうか。
記された「氷」
平安時代の有名な文学作品である『枕草子』(清少納言)と『源氏物語』(紫式部)には次のようにあります。
いかがでしょうか?。『枕草子』では、削った氷に甘葛(あまずら。ツタの樹液、またはアマチャヅルの茎を煮詰めた甘い汁)をかけていたとあります。いまのシロップをかけたかき氷のようなものです。また『源氏物語』の方では、氷水を飲んでいたことが書かれています。今とあまり変わりませんね。
なお氷は、冬のうちに専用の池で作って、氷室に貯蔵していました。また朝廷の氷室は、平安京周辺や現在の奈良県南部、大阪府南部、滋賀県などに置かれていました。
平安時代の貴族の日記にも、夏に氷を口にしたことが記されています。いくつか紹介してみましょう。
藤原実資(957~1046)の日記『小右記』寛弘二年七月二十九日(1005年9月11日)条には、相撲節会という儀式に際して「儀式の時の食事として出される瓜に、氷が添えられていなかった、いつもは氷もあるはずなのに」とあり、氷が瓜(マクワウリ)と一緒に供されていたようです。
また暑さ対策で氷を口にすることも多かったようで、藤原道長(966~1027)の日記『御堂関白記』寛仁二年四月二十日(1018年5月14日)条には、道長の孫である後一条天皇が、氷を口にすることが多く体調を崩したことが書かれています。このとき後一条天皇は11歳。冷たいものを食べ過ぎて、お腹をこわしてしまったのでしょうか。後一条天皇の弟の敦良親王も、後一条天皇の皇太弟時代、束帯姿で風通しが悪い牛車に乗ったので、暑さに耐えられなくなり、冠と襪(しとうづ、靴下)を脱ぎ、氷を食べたことが『小右記』にみえます(治安二年七月十四日条、1022年8月20日)。このとき敦良親王は14歳でした。
暑い日に氷を口にするのは若者だけではありません。例えば『小右記』には、藤原実資が治安三年七月二十七日(1023年8月22日)に「苦熱に堪えず」氷水を飲んだことが記されています。このとき実資は67歳でした。
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