米田彰男教授 最終講義・茶話会
文化史学科研究室です。
簡単に最終講義の内容をご紹介いたします。
「古典の現代性―マルコの手法とイチローの打法―」
イエスは自らは何も書き残さなかった。その死後、思い出として語り継がれてきたことが 、やがて福音書となる。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書がそれだが、イエスの描き方には違いがある。マルコは三者と異なり、イエスを神の子としてことさらに描くのではなく、その生前の行いを一つ一つ丁寧に描くことで、生きたイエスを描こうとした。生きたイエスが、様々な出来事にいかに対処していったか、その事実を具体的に描いた。そこから見えるイエスは、既成概念にとらわれず、人間として正しいことは何か、ということに、自らの生命を込めて行動した人物だった。
古典の現代性はここにある。思想における永遠なるものは、その時代を徹底的に生き抜くこと、それによってしか得られない。イエスの言葉が永遠の価値を持ち、人々の心を打ち続けるのは、与えられた現実をイエスが徹底的に生き抜き、その具体的なできごとを通して発せられた言葉であるからに外ならない。
ひるがえって、イチローの一本足打法は従来の考え方からすれば「正しい」スイングではない。だがそのスイングで彼は未曾有の大活躍をしている。「正しいフォーム」といった既成概念にとらわれず、ただ無心に一球一球に集中するイチローの打法こそ、まさにマルコの福音書の描き方に他ならない。 キリスト論的称号を着せてイエスを理解しようとした当時の既成概念を離れ、具体的に生きたイエスを描くことを通じて、イエスを理解し賛美した試みであった。その描き出すイエスの風貌は、イチローと同じ『野生の革命家』である。
2月24日(土)、青空に恵まれた大学では米田彰男教授の最終講義が開催されました。
米田先生はドミニコ会の神父様でもいらっしゃいます。
最終講義には卒業生、在学生、教職員はもちろん、修道会からシスター方もご参加くださいました。
簡単に最終講義の内容をご紹介いたします。
「古典の現代性―マルコの手法とイチローの打法―」
イエスは自らは何も書き残さなかった。その死後、思い出として語り継がれてきたことが 、やがて福音書となる。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書がそれだが、イエスの描き方には違いがある。マルコは三者と異なり、イエスを神の子としてことさらに描くのではなく、その生前の行いを一つ一つ丁寧に描くことで、生きたイエスを描こうとした。生きたイエスが、様々な出来事にいかに対処していったか、その事実を具体的に描いた。そこから見えるイエスは、既成概念にとらわれず、人間として正しいことは何か、ということに、自らの生命を込めて行動した人物だった。
古典の現代性はここにある。思想における永遠なるものは、その時代を徹底的に生き抜くこと、それによってしか得られない。イエスの言葉が永遠の価値を持ち、人々の心を打ち続けるのは、与えられた現実をイエスが徹底的に生き抜き、その具体的なできごとを通して発せられた言葉であるからに外ならない。
ひるがえって、イチローの一本足打法は従来の考え方からすれば「正しい」スイングではない。だがそのスイングで彼は未曾有の大活躍をしている。「正しいフォーム」といった既成概念にとらわれず、ただ無心に一球一球に集中するイチローの打法こそ、まさにマルコの福音書の描き方に他ならない。 キリスト論的称号を着せてイエスを理解しようとした当時の既成概念を離れ、具体的に生きたイエスを描くことを通じて、イエスを理解し賛美した試みであった。その描き出すイエスの風貌は、イチローと同じ『野生の革命家』である。
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240教室で開催された最終講義の様子 授業を希望された米田先生、教室中央前方には現役の学生たちが座り、「授業」がおこなわれました |
講義終了後、大学講堂にて米田先生を囲んで茶話会が開催されました。
ちょうどお昼時だったこともあり、サンドイッチ、稲荷ずし、米田先生が差し入れてくださったお寿司、チーズに生ハムはあっという間に皆さんのお腹の中におさまりました。
美味しい白ワインと赤ワインも米田先生からの差し入れでした。
茶話会でお言葉を述べる米田先生 |
皆さん、米田先生とのひと時を思い思いに過ごされていたのではないでしょうか。
最後には最終講義後にプレゼントされた米田先生のご著書『寅さんとイエス』へのサイン会も開催されました。
たくさんの方々に囲まれた米田先生はとても嬉しそうでした。
長い間お世話になりました。
そして、ありがとうございました。
米田先生へプレゼントされたメッセージ付ケーキ |
米田先生の写真入りチロルチョコ 来場者の皆様に配られました |
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